7月26日に発生した大量殺人事件についてツイッターで思うところをつぶやいたところ、僕の考えとは別の意見をもらったのでその顛末と、ツイッターでは表現できなかった僕の考えを書いてみたいと思います。
事件概要
平成28年(2016年)7月26日午前2時50分、神奈川県相模原市緑区にある障害者施設の職員から「男が侵入した」と警察に通報があった。警察官が駆けつけたところ、少なくとも十数人の入所者が刺されていた。同日8時30分時点の報道によると、相模原市消防局が19人の死亡を確認、他に26人が負傷(うち20人は重傷)しており、死亡した19人全員が施設の入所者(男性9人、女性10人)である
Wikipedia(2016/07/28時点)より引用
この事件が発生した時間帯に僕が何をしていたかというと…
山へ登ってきたんだけど、カブトムシを捕りに来たという家族(夫婦とその息子2人)とエンカウントしてビビッた
— ナケナイくん (@ifUok) July 25, 2016
午前2時頃から事件のあった場所の50km圏内でクワガタ採集していました。車で約1時間の場所で地獄絵図のような殺人が行われていたと思うとゾッとします。
ツイッターでの顛末
この事件をテレビの報道で知り、このようなツイートをしました。
先日、NHKスペシャルの「介護殺人」を見ていたので、今朝の相模原の事件も、せめて「重度の障害で苦しむ人達を救いたかった」みたいなことが犯行の動機であることを願ってたけど「障害者が憎かった」って言っちゃってる犯人。弱者を狙ってないでISの拠点に突っ込んで自爆してほしい
— ナケナイくん (@ifUok) July 26, 2016
少し前にNHKスペシャル「”介護殺人”当事者たちの告白」という番組を見て「やむをえず、殺人を犯してしまうこともあるのかもしれない」と感じたことや、自分が実際に体験したことを織り交ぜて、さらにこんなツイートをしました。
幼いながらも可哀想だと思ったのは、彼らの母親で、父親は既に家を出ていってしまっていて、その母親が息子達が迷惑をかけた相手にペコペコといつも泣きながら頭を下げていたのが痛々しかった。結局、その母親は近くの山の中で首を吊って自殺しちゃったんだけど「絶望」以外の言葉が見つからなかったよ
— ナケナイくん (@ifUok) July 26, 2016
僕がもしこの先、家族や友人のことも全くわからなくなってしまうような病に犯されてしまい、周りの人に暴力(言葉の暴力も含む)を振るったりするような人間になってしまったとしたら、迷わず殺してほしいと思うよ。人間なのに人間らしく生きられないのってツライじゃん
— ナケナイくん (@ifUok) July 26, 2016
そして上記ツイート(前述した知的障害の兄弟のエピソード)を受けての引用RT
世間の理解がどれだけ重要か。
障がい者の理解や受容っていうのは
本人だけじゃなく、むしろ
家族を守る為に必要なことなんよな。
あたしら職員が利用者を数人連れて外を散歩してた時
通りかかった人の
化け物を見るような目は今も忘れへん https://t.co/mjePh4ifgU
— ヤミー・マックイン (@y_mcquinn) 2016年7月26日
「可哀想」なんて考え方
早くなくなればいいのに。
1つ染色体に異常があるだけで
「人間らしい人間」から除外されるわけ?
もし自分の子供がそうであったら
全力で守ろうとする様に
他人でもその考え方には
違いを持つべきじゃない
— ヤミー・マックイン (@y_mcquinn) 2016年7月26日
ツイッターでは表現できなかったコト
ツイッターは、140文字という制限がある為に全てをそこに表現することが難しいので、ツイートする僕の背景やなんかをいちいち伝えることができません。だからといって、僕の過去のツイートを見て欲しいとも思わないんですけど…。だけど、そんなことを差し引いても、先の意見に対して少し違和感を感じちゃったんです。
「化け物を見るような目」という表現
この表現は、近所に住んでいた非常に暴力的な知的障害のある兄弟について、当時小学生だった僕が「ものすごく恐かった」と感じたことに対するものだと思うんですが、まるで近所に住む「屈強で非常に暴力的な成人」のことを「ものすごく恐かった」と感じることが「タブーである」ことのように思えました。それが障がい者であるのなら、いくらかの配慮が必要だと思うんですが「暴力的な障がい者」であろうが「暴力的な健常者」であろうが、そんな人を見て「恐い」と感じることは、すごく当たり前のことだと思えるんです。
過去にツイートしてるんですが、僕にもADHDの甥っ子(S太/小4)がいます。S太は、非常に暴力的で、人とのコミュニケーションをとることも難しい子です。彼といっしょにスーパーやなんかに行くと、必ず騒ぎを起こします(今は処方された薬でコントロールしていますが)。他人のショッピングカートにいきなりガンガン蹴りを入れたり、陳列棚のポテトチップスを勝手に開けて食べたりします。そんな彼を見て、事情を知っている僕はあまり驚きませんが、彼を見た他人は、必ず彼を「奇異の目」で見つめてきます。そんな状況で、S太を奇異の目で見つめてくる他人に対して、僕はその人達のことを「こっちは障がい者なんじゃボケ!見てんじゃねぇよ!」とは全く思いません。
だって「健常者だろうが障がい者だろうが、陳列棚のポテトチップスをその場で開けて食べちゃダメだろ…」って思っちゃうからです。
それと、ファーストインプレションでS太のことを他人に理解してもらおうと思っていません。っていうか道行く人にいちいち「この子はADHDなのでしょうがないんです」って説明できない。
この先、障がい者に寛容な社会になる日がくるかもしれませんが、悲しいかな今現在の日本はそんな社会ではありません。そして僕もS太の両親も、たぶんS太よりも先に老いて死んでしまいます。だからこそ、S太の行為で、他人が彼を「奇異の目」で見つめるようなことがあるとするならば、それは普通と少し軌道を外れた行為なんだとS太自身に教える必要があると思うんです。この考え方は、S太の両親も僕も全く同じ考えなんですが、間違ってるんでしょうか?高めの熱量のネガティブな意見を聞くと「あれ?僕の考えは世間とズレてんのかな?」って不安になっちゃいます。
「”人間らしい人間”から除外される」という表現
この表現は、僕の「僕がもし人間らしく生きられなくなった場合は殺してほしいと思う」というツイートに対してのものです。
先に紹介したS太は、まれにゴハンを箸を使わずに手で直接食べたりすることがあります。焼肉屋さんに行った時には、網の上の生焼けのカルビを直接手で掴んで火傷をしたこともありました。他にもいろいろなエピソードがあるんですが、僕はこれらの行為を「人間らしくない行為」だと思っています。身体的な障がいのせいでどうしても箸が持てない人やなんかはしょうがないですが、S太は箸を持つことができる人間です。それなのにS太が箸を使わずに手のみを使って食事をした場合には、僕もS太の両親も親族も「おい!それはサルといっしょだよ。そんな食べ方しちゃダメだよ」と叱ります。
僕も大人なので「身体的な理由で箸を持てない人」や「身体的な理由で歩くことができない人」を「人間らしくない」とは思いません。だってできないんだからしょうがないよ…。しかし、できるはずなのにやらない人、やれない人に対しては「人間らしくするべきだ」と思っています。
S太が小学校に入学した当初、給食に出されたゴハンを箸を使わずに手で食べたことが原因で軽いイジメにあっていた時期があります。周りの子供達がS太の行為を見て「人間らしくない」と感じるのはしょうがないと思いました。S太はかなりのショックを受けていましたが、それ以来、「手でわしづかみしてゴハンを食べない」と強く意識するようになりました。このことが良かったのか悪かったのか…そんなことは賛否両論あるのでしょうけど、結果的に良い方向へ向かったので、僕たちの考えもあながち間違ってないのではないのかな?と思ってしまうわけなんです。
しかしながら、自分以外の人間に対しては「人間らしくしてほしい」と望むくせに、仮に自分がこの先、家族のことも友人のことも認識できず、さらに日常的に周りに対して暴力を振るうような病にかかってしまったとしたら…僕はぶっちゃけ自殺するか、もしくは殺してほしいと考えています。このような状況になった場合、臓器提供カードのような意志を提示するものがあったとしたら「殺してほしい」という部分にチェックを入れると思います。
僕の両親は既にこの世にいません。数年前にガンで闘病の末、逝ってしまった父親の介護をしていた時期があります。寝たきりになってしまった父ちゃんの排泄の介助をしている時に、いつも父ちゃんは「お前にこんなことをさせているのが恥ずかしい。こんなことがずっと続くのなら死んだ方がマシだ」とかすれた声でブツブツとつぶやいていました。
親戚が集まるイベントやなんかで年老いてしまった叔父や叔母に出会うと、必ずといっていいほど「家族の世話にはなりたくない」「ボケて周りに迷惑をかけるぐらいなら死んだ方がマシだ」みたいなことを言われます。この言葉はまさに僕にも当てはまります。これってほとんどの人が抱いている思いではないのかな?と思ってしまうんです。こんな考え方って間違ってるんでしょうか?
総論
僕のツイートに意見をくれた方は、介護福祉士をされている方のようです。僕の目線が主に「甥っ子のS太を対象にしている」のに対して、彼女の目線は「自分自身が接しているさまざまな障がい者の人達を対象にしている」点が大きく異なりますが、彼女は素人の僕なんかとは違い、数多くの理不尽な思いを体験してきた人なんだろうなと想像できます。確かに今の社会は障がいのある人達にとって暮らしやすい社会ではないと思います。しかしながら、そんな社会や健常者に怒りをあらわにすることが必ずしも得策であるとは思えません。だからといって、障がい者をバカにして軽蔑するような健常者を許すべきでもありません。
例えば、S太の障がいをバカにする周りの人達に怒りをあらわにし、その人達を敵にまわすことで、S太が孤立して行くのではないのだろうか?と考えるわけなんです。こういう考えは間違ってるんでしょうか?でも確かにキレイゴトなのかもしれないな…
いずれにせよ、現役の介護福祉士の人が、社会や健常者に対してネガティブな考えをぶつけなければならないほど、現場は疲弊しているのだろうなと感じました。人の命を預かるという意味では、医者と変わらないのでは?と思われる保育の現場や、介護の現場において「賃金が安い→人手が足りない→想いだけで対応」みたいな構図になっているのはものすごくおかしいなと感じるんですが、そうは言っても何も変わらないのが今の社会です。僕もどうしていいのかわからないです。
ダラダラと長文になった割に、なにが言いたかったのかわからなくなってすみません。それと、これはあくまでも考え方の相違について述べたものなので、意見をくれた彼女を否定するものではありません。もっとお互いに踏み込んだ意見交換をしたかったというのはありますが…